『生のみ生のままで』を巡る感動と憧憬とその他諸々
※綿矢りさ作品全般のネタバレ注意
やあやあご無沙汰です。
久しぶりにこのブログに来ました。
JOKER観たときとかソラニン観たときはこのブログで書こうかなとも何度か思ったのですが、
残念ながら仕事の忙しさにかまけてガン放置してました。
ま、前回今回と続けて僕のブログを読む人はほとんどいないでしょうから
こんな前置きはすっ飛ばしましょう。
さて今回はこの小説を巡っていろいろと語りますです。
(初めに言っておくとこれは感想ではありません。この記事はただの感情です。)
2019年出版、綿矢りさ著の小説ですね。
私は綿矢りさの大ファンで、この小説が去年出たことも知っていたのですが、
「お前は先に積み本を消化しろよ!」というド正論な自分の叱責にぐうの音も出ず、
やむなくamazonのほしいものリストに入れるだけに留めていました。
が、当然ながら(?)積み本を消化しきるなんてことはなく、
新たに始まった社会人生活に眩暈もしていたので、この本のことは忘れてしまいました。
そして最近、なんとなしにほしいものリストを眺めてた時に思い出し、
衝動的に買い、衝動的に読み切り、ブログを書くに至ったわけですね。
簡単にあらすじを紹介します。
彼氏と旅行に出かけた主人公の逢衣(あい)は、彼の幼なじみとその彼女、彩夏(さいか)に偶然出逢います。
男二人はこの偶然に喜び、四人で一緒にこのリゾートを楽しむことにしたのですが、彩夏は逢衣には不躾な視線を送るばかり。
ところが故あって二人は打ち解け、東京へ帰った後も休息に仲良くなっていきます。
やがて彼氏との結婚を考えている話を彩夏にすると、彼女は突然唇を奪ってきて、「最初からずっと好きだった」と告白します。
最初は拒絶した逢衣ですが、次第に彼女も彩夏に惹かれているのを自覚し、そして二人は――……
とまあ、こんな感じの始まりです。
今回はあんまり感想とかじゃないので覚えなくても大丈夫です。
じゃなんであらすじ言ったんだって話なんですが、
いいですかオタク。
これは女性同士の恋愛をアグレッシブかつ極めて丁寧に書いたお話です。
今言わないとタイミングを逃すから言っておきたいんです。
オタク、読んでくれ……(懇願)
もう、本当に素晴らしかったんです。
特に僕は、下巻での二人のセックスシーンをボロボロ泣きながら読んでいました。
物語に感動するとか、誰かの死ぬシーンで悲嘆するとかそういうのではなく、
純粋にあまりに"良"くて涙が出るというのは、人間そこまで経験できることではありませんよね。
とはいえ、僕はこの小説は誰にとっても僕と同じように映る普遍的な価値のある小説だとも思いません。
ストーリーは決してベタではありませんが、すごく突飛というわけでもなく。
女性同士の恋愛小説と言ったって、今どき別に珍しいものでもありません、探せばいくらでも見つかるでしょう。
しかし、高校生の頃に綿矢りさを知り、彼女の背中を追い続けてきた人間としては、
この作品に心の底から湧き上がる純的な感情を自覚し、そして晴れやかに絶望しました。
あ、やっぱ僕、綿矢りさにはなれないんだ、と。
僕は小説を書きますが、決して熱心な読書家ではありません。
恥ずかしながら僕は貧困な想像力の持ち主で、
音や映像なしにじっと想像力を働かせて文字を追い続けるというのがどうにも苦手で、
あまり小説を読みません。
実際、僕の最近の読書量は年に4,5冊が関の山で、
他に読む活字と言えばツイッターとゲームくらいです。
そんなんでよくもまあ飽きもせず小説の執筆だけはせっせこ続けられるもんだなあと僕は客観的に思います。
まあ、そんな私にも唯一ずっと追い続けている作家さんがいるわけですよ。
それが、時雨沢恵一先生と綿矢りさ先生というわけですね。
唯一というのは嘘です。は?(困惑)
ま、時雨沢恵一のことはまた今度語るとして、今日は綿矢りさの話。
『生のみ生のままで』の作者綿矢りさと私の出会いは、
高校生の頃図書室に置いてあった『蹴りたい背中』を読んだことに始まります。
当時の僕はといえば、まァ~典型的なラノベっ子でして、それこそ時雨沢先生のキノの旅であったり、他にも狼と香辛料とかとあるとか、
図書室に置いてあったラノベを根こそぎ読んでおりました。
当時既に小説を書いていた僕は、高校生になると例に漏れず高二病を発症しまして
「もっと"""高尚"""な文学が読みたい!」と思うようになりました。
わたモテにそんな回ありましたね
とはいえ僕は古典的な文章をあまり好まず、要は「平易な文章」かつ「高度な純文学」を求め、
とりあえず安直に芥川賞受賞作の中から読み易そう~な小説を探しました。
そこで見つけたのが『蹴りたい背中』。
まず、ご覧くださいこの冒頭。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。
オイオイオイオイオイオイ
なんだなんだ?? この文章!!
等身大の言葉を使う、捻くれた女子高生。
けれどただ捻くれているだけじゃない。
「さびしい」から斜に構えてるってなスタンスなわけですよ、
愛し!!!!!! 分かり!!!!!!!!
今思えばこれは文章に対する一目惚れと言ってもよいかもしれません。
僕はあまり小説を読みません。小説の巧拙だとか分かりません。審美眼が優れているとも思いません。
けど、この文章はそんな僕にダイレクトに届く青天の霹靂だったんです。
とにかく私は、綿矢りさの描く捻くれているようで真っ直ぐな、若々しいエネルギーのある心内描写に心底惚れこみました。
綿矢りさの書く冒頭は、いつも一編のポエムのように美しく抽象的で、読者をすんなりと物語の世界に引き込み、興味を持たせてくれます。
だからでしょうか、綿矢りさ作品にはどこかファンタジックな、限りなく現実に根差した話なのにどこかふわふわと漂っているような、そんな印象を受けます。
言ってみれば2.8次元くらいの感じです。
しかし、僕みたいなオタクにとっては、この2.8次元こそが最もリアルを感じる領域ではないか自分は考えているわけですねコレ。
ま、そんな持論はどうでもよくて。
かくして僕は綿矢りさと出会い、
まずは『インストール』『勝手にふるえてろ』等の評価された名作を読んでいったわけですが、
その中でとうとう『ひらいて』に出会ってしまいます。
さて、この『ひらいて』。
この作品は、小説に限って言えば最も僕の創作に影響を与えた作品と断言できます。
この本に出会って僕の作品傾向は大きく変わりました。
※感情の連なるままに『ひらいて』への想いを語っていたらそれだけで一記事にできそうな内容になってしまったので今回は飛ばします。また今度。
要は僕が
・主人公が「正しさを証明する」物語ではなく、「感情を表明する」物語に重点を置くようになった
・女性同士の感情の在り方をとても美しいと思うようになった
・自分の感性は「女性」の視点で語った方が馴染むと気づいた
そのきっかけになった作品ということですね。
そこでもう僕は文体に限れば「綿矢りさ」が目指すべき理想だと自覚しました。
凡人なりに、それなりに、努力をしました。
でも別に彼女の文体をコピーしようとしたわけではありません。
ただ彼女の作品を読み、自分の作品を書くのです。
そうすると自然と、僕の書く文章は綿矢りさの文体に近づきました。
主人公を女性にすると自分の感性を最も適切に表現できる。
冒頭を詩的にすると作品全体が弾むようなリズム感を持ち読みやすくなる。
自分の書きたい理想を追求すれば、その頂に彼女がいるのです。
でも今回の『生のみ生のままで』で完膚なきまでに打ちのめされたのです。
インタビューを読むとこんなふうに書いてありました。
今回、女性同士の恋愛を長いスパンでお書きになっていらっしゃいますが、
どんなお気持ちからだったのでしょうか。
綿矢
私は主人公たちと同じくらいの年齢ですが、二十代で大恋愛を経験すると、三十代半ばに突入してもそれをひきずってしまう感じを書きたいと思いました。たとえ会わない空白期間があっても、恋愛感情の質が変化していっても、相手への気持ちはどうしても続いてしまう関係。それを長編で表したいと思ったんです。女の人同士の恋愛については、『ひらいて』という小説でふたりの女子高生と男子高生の三角関係みたいなものを書いたときに、もっと書ける余地があるなと感じました。一度本気で書いてみようと、ずっと考えていましたね。
『生のみ生のままで(上・下)』刊行記念インタビュー
おいおい……。
「もっと書ける余地があるな」からここまで書いたってのか……。
確かにこの作品は、舞台背景こそ全くオリジナルですが、
結構過去の作品をベースにして作りこんでいるような印象はありました。
女が女を彼氏から奪う、という構図はまさしく『ひらいて』ですしね。
あと、実は彩夏が芸能人であることもこの物語の大きなキーになるのですが、
こういった芸能人が抱える意志や苦難は『夢を与える』でも出てきました。
言ってみればドラクエ11のような感じですね!(申し訳程度の前記事とのつながり)
しかしそれこそが、僕が打ちのめされた根本の原因です。
僕は今まで、何かスランプに陥った時は綿矢りさの小説を読んでモチベを上げたり創作のヒントを得たりしてきました。
それと同じく(?)『生のみ生のままで』は、
綿矢りさ自身が、自分の小説を振り返りつつ書いた作品なのではないかと私は思ってます。思ってるだけですが。
だからこの作品からは、彼女の『綿矢りさ』感が十全に放たれていた。
その感性は少しも衰えることがなく。
僕が憧れてやまないあの瑞々しい文章を、さらに更新していく。
曲がりなりにも5年間、自分の内に綿矢りさの幻影を見て追い続けてきた僕には、トドメの一撃のようなものでした。
僕は綿矢りさにはなれない。
こんなにも美しく鮮烈な女性を書くことはできない。
互いに相手を想う二人が、違えてきた想いの積み重ねを、ここまでドラマチックに書くことはできない。
二人を刺し貫くような互いの愛を、こうも丁寧に、400ページに渡って綴ることはできない。
技術、感性、努力、才能、何においても僕は勝てませんが、
唯一どうしようもないのは性別ですね。
僕は男なのです。
いくら僕の感性を表明する語り手として女性が適切だからといって、
僕の人生はむしろ女性とはかなり縁遠いものでした。
僕には、女性の生理や下着や化粧などをつぶさに描写する勇気がありません。
それは現実的かつ、僕にはどうしてもファンタジックで、そこの断絶が文章にしたとき顕著になる。
こんなこと書くと怒られそうですが、僕は小説を書くときに限っては女性に生まれればよかったと心の底から思います。都合よく。
僕は何度も女性の感情のリアルを書き出そうと試みてはいますが、やはり男性臭さが消えない。
悲しみや怒りといった感情ひとつとっても、男性的な悲しみや女性的な悲しみといった、差別化の難しいニュアンスがある気がします。
特にそう思うのは、(これもなんだか怒られそうなんですけど……)異性への媚びです。
綿矢りさは『ひらいて』でも『生のみ生のままで』でも、女性の男性に対する「媚び」の描写があります。
この媚びというのは、男性が女性に気に入られようと媚びるのとは質が全然違う気がするんですね。
まあ実際に男性の媚びと女性の媚びというのは行為自体が全然違っているので、当然と言えば当然なんですけど、
どうにもこういった感情を、自分のものとして正確に追体験できている気がしないのです。
だから私が女性を書こうとすると、2.8次元に寄せようとしてベクトルを間違えた、3.2次元の滑稽なリアリティしか生み出せないような気がして、
怯えてしまいます。
でも書かないとどうしようもないから書くんですけど。
さて、なんかいい加減中身に触れないと「お前ちゃんと読んだんかい」となりかねないので話を移しましょう。
『生のみ生のままで』、何が魅力かといえば、冒頭に書いた「アグレッシブかつ極めて丁寧に」描かれた恋愛です。
女性同士の、というのをさっき強調しましたが、実のところ、それをあまりアピールするのは風情がないかもしれません。
このストーリーはレズビアンあるいはバイセクシャルが理想の同性と出会えてハッピー、といった話ではありません。
この二人は、どちらも真剣に恋人の男を愛していたのに、それ以上に恋しい相手に出会ってしまったのです。
「女だから」ではなく、逢衣だから、彩夏だから、二人は互いを好きになったということか描写されています。
とはいえ、もちろんこの二人が同性であることは物語上でとても強い意味をもっています。
こういった同性愛モノで二人の関係を周りに反対されるなんてのはもはやお約束すぎて親になっちゃう感じですが、
この作品中ではそれにもましてこれでもかというほど二人の関係が異質なものとして扱われます。
そもそも当の逢衣だって、彩夏に告白された直後は「冗談でしょ」と言います。無理やり唇を奪われて、必死の形相で自分を抱きしめる彩夏に対してです。
それに対し彩夏は「冗談でこんなこと言う人っているの」と言い返します。
なーんか見たことあるフレーズだと思ったんですが、これは『勝手にふるえてろ』のラストの問答に似ています。似ているというとアレですね、想起しました。
ヨシカが「私の内面をもっと知りたいと思わないの、聞いてよ、私がどんなことを思っているのか」と訴えるシーンで、
ニの「からかってるんだな。分かったからもう泣きやめ。落ち着け」と言うのに対し、
「一体どこの世界に泣きながら人をからかう女がいるの」と返します。
これなのです。
誤解なきよう強調しておきますが、これは「表現被ってるぞ!」という指摘ではありません。
むしろこれは何度繰り返されてもいい。
人間は一般に共感性をもって生まれてくる生き物なのに、いやだからなのかもしれませんが、
人は共感できない感情にぶち当たるとそれを別物の感情として解釈しがちです。
そういうのすげ~~嫌いなんですね僕。ハイまた自分語りします。
相手を理解する=マウントを取ると勘違いしている人がこの世には多数いる気がするんですよねぇ!(ヒートアップ)
「あなたってこういう人間だよね」という一方的なカテゴライズによって相手を自分の知識の範囲内の存在として扱おうという考え方を僕は激しく嫌っています。
相手の知らないことを自分は知っているってのは、そりゃさぞかし気持ちがいいですけどね、
相手の心の中まで自分の方が知ってると思いたいだなんて傲慢にも程がありますよ。
同性を好きになることはあるんです。
一方的にフッた相手を呼び出して怒って泣いて「私を知ってよ」と訴えることだってあるんです。
「あなたこうでしょう」と言ってマウントを取るのは理解の拒絶にすぎない。
あなたに私は理解できないし、私もあなたを理解できないんだから、
相手と一緒に歩くには、同じ目線で手を取り合って、摺り足で行くしかないでしょう?
……ま、そんな話はここまでとして。
この理解してくれない人たちというのは、全編渡って何回も登場します。
あなたのそれは愛情ではない。間違い、勘違いだ。影響されてるだけ。
その度に彼女たちは自らの内に滾る愛を確かめます。
「これが恋でないと言うなら、あなたは一体何を恋と呼ぶのか」
ところが、彩夏のスキャンダルと共に、
2人は強制的に事務所によって引き離されます。
下巻の序盤。予期しなかった危機が迫り、互いの考え方の決定的な違いも露見する。
ほとんど喧嘩別れのような形で離れてしまった2人。
私たちは性急に関係を結び、楽園に住み続けることもできたのに、見つかると別々の方向へ逃げた……
から始まる、物語の合間挟まれた詩がとても印象的でした。
さて、次に2人が会うことになるまで、7年です。
7年。
皆さんにとって7年とはどれくらいの重みをもちますか。
あるいは、どれくらい「今」を忘れられる年月だと思いますか。
少なくとも、「時期が来たら2人の交際を認めるから連絡をする」と約束した事務所の人間が、まさかまだ待ち続けていたりはしないだろうと思うような年月。
少なくとも、愛し合っていた2人の間の断絶が、飛び越えられるか分からないほど開いてしまうような年月。
それでも、一度灯った愛情が消えるほど長い年月では、決してないのです。
なーんてクサいことを言って、感想は一旦締めるとしましょう。
ここから先どうなるのか気になる人はぜひ買ってください。
ここまでこの記事を読んでくれたモノ好きならたぶん大丈夫です気に入ります!
ここからは余談です。
僕は綿矢りさになれないと言いましたが、
別に綿矢りさになりたかったわけじゃありません。
ただ彼女は、僕の書きたい感性を最もダイレクトに表現できるすべを持っていて、
そしてそのすべを僕が真似できることは今後もきっとないだろう、という話。
それはそれでかなりしんどい話ではありますが、
何も僕が筆を折るだとか、そういった大げさな話ではありません。
僕は綿矢りさにはなれませんが、えどきです。
綿矢りさの文体を目指すのと同じくらい一生懸命に、
人外たちの魅力的な物語を考えています。(そうなんですよ実は)
僕の文章はまだまだ未熟ですが、
僕の考えたうちの子たちを、他に比べて劣ってるだなんて考えたことは一瞬たりともありません。
僕は綿矢りさではないですが、えどきですから、
僕はえどきの作る物語を抱えて息吸って生きてます。
だから結局、開き直ってしまえば楽なんでしょうね。
きのみきのままで書いていきますか。
5月17日によぉ! 川崎でよぉ!
「人間じゃない♪」 って人外オンリー同人誌即売会があるからよぉ!
小説出すからよかったら来てくれよなぁ!!