えどきの感想置き場

感想置き場です。

『生のみ生のままで』を巡る感動と憧憬とその他諸々

綿矢りさ作品全般のネタバレ注意

 

 

やあやあご無沙汰です。

久しぶりにこのブログに来ました。

JOKER観たときとかソラニン観たときはこのブログで書こうかなとも何度か思ったのですが、

残念ながら仕事の忙しさにかまけてガン放置してました。

ま、前回今回と続けて僕のブログを読む人はほとんどいないでしょうから

こんな前置きはすっ飛ばしましょう。

さて今回はこの小説を巡っていろいろと語りますです。

(初めに言っておくとこれは感想ではありません。この記事はただの感情です。)

 

生のみ生のままで 上

生のみ生のままで 上

 

 

2019年出版、綿矢りさ著の小説ですね。

私は綿矢りさの大ファンで、この小説が去年出たことも知っていたのですが、

「お前は先に積み本を消化しろよ!」というド正論な自分の叱責にぐうの音も出ず、

やむなくamazonのほしいものリストに入れるだけに留めていました。

が、当然ながら(?)積み本を消化しきるなんてことはなく、

新たに始まった社会人生活に眩暈もしていたので、この本のことは忘れてしまいました。

そして最近、なんとなしにほしいものリストを眺めてた時に思い出し、

衝動的に買い、衝動的に読み切り、ブログを書くに至ったわけですね。

 

簡単にあらすじを紹介します。

 

彼氏と旅行に出かけた主人公の逢衣(あい)は、彼の幼なじみとその彼女、彩夏(さいか)に偶然出逢います。

男二人はこの偶然に喜び、四人で一緒にこのリゾートを楽しむことにしたのですが、彩夏は逢衣には不躾な視線を送るばかり。

ところが故あって二人は打ち解け、東京へ帰った後も休息に仲良くなっていきます。

やがて彼氏との結婚を考えている話を彩夏にすると、彼女は突然唇を奪ってきて、「最初からずっと好きだった」と告白します。

最初は拒絶した逢衣ですが、次第に彼女も彩夏に惹かれているのを自覚し、そして二人は――……

 

とまあ、こんな感じの始まりです。

今回はあんまり感想とかじゃないので覚えなくても大丈夫です。

じゃなんであらすじ言ったんだって話なんですが、

いいですかオタク。

これは女性同士の恋愛をアグレッシブかつ極めて丁寧に書いたお話です。

今言わないとタイミングを逃すから言っておきたいんです。


オタク、読んでくれ……(懇願)

 

もう、本当に素晴らしかったんです。

特に僕は、下巻での二人のセックスシーンをボロボロ泣きながら読んでいました。

物語に感動するとか、誰かの死ぬシーンで悲嘆するとかそういうのではなく、

純粋にあまりに"良"くて涙が出るというのは、人間そこまで経験できることではありませんよね。

とはいえ、僕はこの小説は誰にとっても僕と同じように映る普遍的な価値のある小説だとも思いません。

ストーリーは決してベタではありませんが、すごく突飛というわけでもなく。

女性同士の恋愛小説と言ったって、今どき別に珍しいものでもありません、探せばいくらでも見つかるでしょう。


しかし、高校生の頃に綿矢りさを知り、彼女の背中を追い続けてきた人間としては、
この作品に心の底から湧き上がる純的な感情を自覚し、そして晴れやかに絶望しました。


あ、やっぱ僕、綿矢りさにはなれないんだ、と。

 

僕は小説を書きますが、決して熱心な読書家ではありません。

恥ずかしながら僕は貧困な想像力の持ち主で、

音や映像なしにじっと想像力を働かせて文字を追い続けるというのがどうにも苦手で、
あまり小説を読みません。

実際、僕の最近の読書量は年に4,5冊が関の山で、

他に読む活字と言えばツイッターとゲームくらいです。

そんなんでよくもまあ飽きもせず小説の執筆だけはせっせこ続けられるもんだなあと僕は客観的に思います。

 

まあ、そんな私にも唯一ずっと追い続けている作家さんがいるわけですよ。


それが、時雨沢恵一先生と綿矢りさ先生というわけですね。
唯一というのは嘘です。は?(困惑)

ま、時雨沢恵一のことはまた今度語るとして、今日は綿矢りさの話。

 

『生のみ生のままで』の作者綿矢りさと私の出会いは、

高校生の頃図書室に置いてあった『蹴りたい背中』を読んだことに始まります。

当時の僕はといえば、まァ~典型的なラノベっ子でして、それこそ時雨沢先生のキノの旅であったり、他にも狼と香辛料とかとあるとか、

図書室に置いてあったラノベを根こそぎ読んでおりました。


当時既に小説を書いていた僕は、高校生になると例に漏れず高二病を発症しまして

「もっと"""高尚"""な文学が読みたい!」と思うようになりました。
わたモテにそんな回ありましたね

とはいえ僕は古典的な文章をあまり好まず、要は「平易な文章」かつ「高度な純文学」を求め、

とりあえず安直に芥川賞受賞作の中から読み易そう~な小説を探しました。


そこで見つけたのが『蹴りたい背中』。

まず、ご覧くださいこの冒頭。

 

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。

 

オイオイオイオイオイオイ

なんだなんだ?? この文章!!

等身大の言葉を使う、捻くれた女子高生。

けれどただ捻くれているだけじゃない。

「さびしい」から斜に構えてるってなスタンスなわけですよ、


愛し!!!!!! 分かり!!!!!!!!


今思えばこれは文章に対する一目惚れと言ってもよいかもしれません。

僕はあまり小説を読みません。小説の巧拙だとか分かりません。審美眼が優れているとも思いません。

けど、この文章はそんな僕にダイレクトに届く青天の霹靂だったんです。

 

とにかく私は、綿矢りさの描く捻くれているようで真っ直ぐな、若々しいエネルギーのある心内描写に心底惚れこみました。

綿矢りさの書く冒頭は、いつも一編のポエムのように美しく抽象的で、読者をすんなりと物語の世界に引き込み、興味を持たせてくれます。

だからでしょうか、綿矢りさ作品にはどこかファンタジックな、限りなく現実に根差した話なのにどこかふわふわと漂っているような、そんな印象を受けます。

言ってみれば2.8次元くらいの感じです。

しかし、僕みたいなオタクにとっては、この2.8次元こそが最もリアルを感じる領域ではないか自分は考えているわけですねコレ。


ま、そんな持論はどうでもよくて。

かくして僕は綿矢りさと出会い、

まずは『インストール』『勝手にふるえてろ』等の評価された名作を読んでいったわけですが、


その中でとうとう『ひらいて』に出会ってしまいます。


さて、この『ひらいて』。

この作品は、小説に限って言えば最も僕の創作に影響を与えた作品と断言できます。

この本に出会って僕の作品傾向は大きく変わりました。

 

※感情の連なるままに『ひらいて』への想いを語っていたらそれだけで一記事にできそうな内容になってしまったので今回は飛ばします。また今度。

 

要は僕が

・主人公が「正しさを証明する」物語ではなく、「感情を表明する」物語に重点を置くようになった

・女性同士の感情の在り方をとても美しいと思うようになった

・自分の感性は「女性」の視点で語った方が馴染むと気づいた

そのきっかけになった作品ということですね。

 

そこでもう僕は文体に限れば「綿矢りさ」が目指すべき理想だと自覚しました。

凡人なりに、それなりに、努力をしました。

でも別に彼女の文体をコピーしようとしたわけではありません。

ただ彼女の作品を読み、自分の作品を書くのです。

 

そうすると自然と、僕の書く文章は綿矢りさの文体に近づきました。

主人公を女性にすると自分の感性を最も適切に表現できる。

冒頭を詩的にすると作品全体が弾むようなリズム感を持ち読みやすくなる。 

自分の書きたい理想を追求すれば、その頂に彼女がいるのです。

でも今回の『生のみ生のままで』で完膚なきまでに打ちのめされたのです。


インタビューを読むとこんなふうに書いてありました。

今回、女性同士の恋愛を長いスパンでお書きになっていらっしゃいますが、

どんなお気持ちからだったのでしょうか。

綿矢
私は主人公たちと同じくらいの年齢ですが、二十代で大恋愛を経験すると、三十代半ばに突入してもそれをひきずってしまう感じを書きたいと思いました。たとえ会わない空白期間があっても、恋愛感情の質が変化していっても、相手への気持ちはどうしても続いてしまう関係。それを長編で表したいと思ったんです。女の人同士の恋愛については、『ひらいて』という小説でふたりの女子高生と男子高生の三角関係みたいなものを書いたときに、もっと書ける余地があるなと感じました。一度本気で書いてみようと、ずっと考えていましたね。

 

 

『生のみ生のままで(上・下)』刊行記念インタビュー

renzaburo.jp

 

おいおい……。

「もっと書ける余地があるな」からここまで書いたってのか……。

確かにこの作品は、舞台背景こそ全くオリジナルですが、

結構過去の作品をベースにして作りこんでいるような印象はありました。

女が女を彼氏から奪う、という構図はまさしく『ひらいて』ですしね。

あと、実は彩夏が芸能人であることもこの物語の大きなキーになるのですが、

こういった芸能人が抱える意志や苦難は『夢を与える』でも出てきました。

言ってみればドラクエ11のような感じですね!(申し訳程度の前記事とのつながり)


しかしそれこそが、僕が打ちのめされた根本の原因です。

僕は今まで、何かスランプに陥った時は綿矢りさの小説を読んでモチベを上げたり創作のヒントを得たりしてきました。

それと同じく(?)『生のみ生のままで』は、

綿矢りさ自身が、自分の小説を振り返りつつ書いた作品なのではないかと私は思ってます。思ってるだけですが。


だからこの作品からは、彼女の『綿矢りさ』感が十全に放たれていた。

その感性は少しも衰えることがなく。

僕が憧れてやまないあの瑞々しい文章を、さらに更新していく。

 

曲がりなりにも5年間、自分の内に綿矢りさの幻影を見て追い続けてきた僕には、トドメの一撃のようなものでした。

 

僕は綿矢りさにはなれない。

こんなにも美しく鮮烈な女性を書くことはできない。

互いに相手を想う二人が、違えてきた想いの積み重ねを、ここまでドラマチックに書くことはできない。

二人を刺し貫くような互いの愛を、こうも丁寧に、400ページに渡って綴ることはできない。

 

技術、感性、努力、才能、何においても僕は勝てませんが、

唯一どうしようもないのは性別ですね。

 

僕は男なのです。

いくら僕の感性を表明する語り手として女性が適切だからといって、

僕の人生はむしろ女性とはかなり縁遠いものでした。

僕には、女性の生理や下着や化粧などをつぶさに描写する勇気がありません。

それは現実的かつ、僕にはどうしてもファンタジックで、そこの断絶が文章にしたとき顕著になる。

こんなこと書くと怒られそうですが、僕は小説を書くときに限っては女性に生まれればよかったと心の底から思います。都合よく。

僕は何度も女性の感情のリアルを書き出そうと試みてはいますが、やはり男性臭さが消えない。

悲しみや怒りといった感情ひとつとっても、男性的な悲しみや女性的な悲しみといった、差別化の難しいニュアンスがある気がします。

 

特にそう思うのは、(これもなんだか怒られそうなんですけど……)異性への媚びです。

綿矢りさは『ひらいて』でも『生のみ生のままで』でも、女性の男性に対する「媚び」の描写があります。

この媚びというのは、男性が女性に気に入られようと媚びるのとは質が全然違う気がするんですね。

まあ実際に男性の媚びと女性の媚びというのは行為自体が全然違っているので、当然と言えば当然なんですけど、

どうにもこういった感情を、自分のものとして正確に追体験できている気がしないのです。

 

だから私が女性を書こうとすると、2.8次元に寄せようとしてベクトルを間違えた、3.2次元の滑稽なリアリティしか生み出せないような気がして、

怯えてしまいます。

でも書かないとどうしようもないから書くんですけど。

 

さて、なんかいい加減中身に触れないと「お前ちゃんと読んだんかい」となりかねないので話を移しましょう。

『生のみ生のままで』、何が魅力かといえば、冒頭に書いた「アグレッシブかつ極めて丁寧に」描かれた恋愛です。

女性同士の、というのをさっき強調しましたが、実のところ、それをあまりアピールするのは風情がないかもしれません。

 

このストーリーはレズビアンあるいはバイセクシャルが理想の同性と出会えてハッピー、といった話ではありません。

この二人は、どちらも真剣に恋人の男を愛していたのに、それ以上に恋しい相手に出会ってしまったのです。

「女だから」ではなく、逢衣だから、彩夏だから、二人は互いを好きになったということか描写されています。

 

とはいえ、もちろんこの二人が同性であることは物語上でとても強い意味をもっています。

こういった同性愛モノで二人の関係を周りに反対されるなんてのはもはやお約束すぎて親になっちゃう感じですが、

この作品中ではそれにもましてこれでもかというほど二人の関係が異質なものとして扱われます。

そもそも当の逢衣だって、彩夏に告白された直後は「冗談でしょ」と言います。無理やり唇を奪われて、必死の形相で自分を抱きしめる彩夏に対してです。

それに対し彩夏は「冗談でこんなこと言う人っているの」と言い返します。

 

なーんか見たことあるフレーズだと思ったんですが、これは『勝手にふるえてろ』のラストの問答に似ています。似ているというとアレですね、想起しました。

 

ヨシカが「私の内面をもっと知りたいと思わないの、聞いてよ、私がどんなことを思っているのか」と訴えるシーンで、

ニの「からかってるんだな。分かったからもう泣きやめ。落ち着け」と言うのに対し、

「一体どこの世界に泣きながら人をからかう女がいるの」と返します。

 

これなのです。

誤解なきよう強調しておきますが、これは「表現被ってるぞ!」という指摘ではありません。

むしろこれは何度繰り返されてもいい。

人間は一般に共感性をもって生まれてくる生き物なのに、いやだからなのかもしれませんが、

人は共感できない感情にぶち当たるとそれを別物の感情として解釈しがちです。

そういうのすげ~~嫌いなんですね僕。ハイまた自分語りします。

 

相手を理解する=マウントを取ると勘違いしている人がこの世には多数いる気がするんですよねぇ!(ヒートアップ)

「あなたってこういう人間だよね」という一方的なカテゴライズによって相手を自分の知識の範囲内の存在として扱おうという考え方を僕は激しく嫌っています。

相手の知らないことを自分は知っているってのは、そりゃさぞかし気持ちがいいですけどね、

相手の心の中まで自分の方が知ってると思いたいだなんて傲慢にも程がありますよ。

同性を好きになることはあるんです。

一方的にフッた相手を呼び出して怒って泣いて「私を知ってよ」と訴えることだってあるんです。

「あなたこうでしょう」と言ってマウントを取るのは理解の拒絶にすぎない。

あなたに私は理解できないし、私もあなたを理解できないんだから、

相手と一緒に歩くには、同じ目線で手を取り合って、摺り足で行くしかないでしょう?

 

……ま、そんな話はここまでとして。

この理解してくれない人たちというのは、全編渡って何回も登場します。

あなたのそれは愛情ではない。間違い、勘違いだ。影響されてるだけ。

その度に彼女たちは自らの内に滾る愛を確かめます。

 

「これが恋でないと言うなら、あなたは一体何を恋と呼ぶのか」


ところが、彩夏のスキャンダルと共に、

2人は強制的に事務所によって引き離されます。

下巻の序盤。予期しなかった危機が迫り、互いの考え方の決定的な違いも露見する。

ほとんど喧嘩別れのような形で離れてしまった2人。

私たちは性急に関係を結び、楽園に住み続けることもできたのに、見つかると別々の方向へ逃げた……

から始まる、物語の合間挟まれた詩がとても印象的でした。

さて、次に2人が会うことになるまで、7年です。

 

7年。

皆さんにとって7年とはどれくらいの重みをもちますか。

あるいは、どれくらい「今」を忘れられる年月だと思いますか。

少なくとも、「時期が来たら2人の交際を認めるから連絡をする」と約束した事務所の人間が、まさかまだ待ち続けていたりはしないだろうと思うような年月。

少なくとも、愛し合っていた2人の間の断絶が、飛び越えられるか分からないほど開いてしまうような年月。

 

それでも、一度灯った愛情が消えるほど長い年月では、決してないのです。


なーんてクサいことを言って、感想は一旦締めるとしましょう。

ここから先どうなるのか気になる人はぜひ買ってください。

ここまでこの記事を読んでくれたモノ好きならたぶん大丈夫です気に入ります!

 


ここからは余談です。

僕は綿矢りさになれないと言いましたが、

別に綿矢りさになりたかったわけじゃありません。

ただ彼女は、僕の書きたい感性を最もダイレクトに表現できるすべを持っていて、

そしてそのすべを僕が真似できることは今後もきっとないだろう、という話。

 

それはそれでかなりしんどい話ではありますが、

何も僕が筆を折るだとか、そういった大げさな話ではありません。

 

僕は綿矢りさにはなれませんが、えどきです。

綿矢りさの文体を目指すのと同じくらい一生懸命に、

人外たちの魅力的な物語を考えています。(そうなんですよ実は)

 

僕の文章はまだまだ未熟ですが、

僕の考えたうちの子たちを、他に比べて劣ってるだなんて考えたことは一瞬たりともありません。

僕は綿矢りさではないですが、えどきですから、

はえどきの作る物語を抱えて息吸って生きてます。

 

だから結局、開き直ってしまえば楽なんでしょうね。

きのみきのままで書いていきますか。

 

 


5月17日によぉ! 川崎でよぉ!

「人間じゃない♪」 って人外オンリー同人誌即売会があるからよぉ!

小説出すからよかったら来てくれよなぁ!!

 

www.nothuman.info

 

 

ドラクエを「台無し」にした映画ドラクエへの賛辞

※ネタバレ注意

 

こんにちは、初めまして、えどきです。
映画、ドラゴンクエスト・ユアストーリーの感想をネタバレ込みで書きたいがためにブログを開設してしまいました。
今後も気が向いたら使っていこうと思います。

 

さて何につけてもまずは映画ドラクエの話。

先に言っておきましょう。
僕はこの映画、大好きです。
本当に好きです。最高。
だから僕はユアストーリーのクソさを語ってほしい皆さんの希望には添えません。
ただ、あの映画を初日に観に行って、素直に感動して帰ってきたのに、感想を見てみれば罵詈雑言ばかり。
そんな人たちが少しでも心を和らげてくれたらなと思ってます。

怨嗟のような批判を書いている人たちは、きっといずれもドラクエの大ファンなんでしょう。
それは、よく分かります。(見もせずに「実写デビルマンと同列らしいw」とか言ってる人は僕が毎日30分寝過ごす呪いをかけてやるから覚悟しとけよ)
だから、映画を面白かったと感じた人たちでさえ、
「正常なドラクエファンの反応はこれなのか…?」
と、自分の感性を疑ってしまったかもしれません。

ですから僕も、ドラクエの大ファンとして、これから魂を込めてこの映画を肯定します。(全肯定というわけではないですが)
大丈夫です。ドラクエファンでも、この映画を好きになっていいんです。
(こういう動機があるので、主な批判への自分なりの言い返しが結構多いです)

感想にはこんな文言が結構ありますよね。
ドラクエが好きであればあるほどこの映画を嫌いになる」

んなわけあるかい。
少なくともここに一人います。ドラゴンクエストというコンテンツが大好きすぎて人生にも自創作にも多大な影響を受けている僕が、この映画を大好きだと言っています。
自分の物差しで相手の愛を測ろうとする人間にだけはなりたくないものですね。
え? まだなんかあるの? 「ドラクエ好きにはこの映画おすすめできない」?

それはそう(深い肯定)

まあ、イントロはこの辺にしときまして。
僕はこういうスタンスです、というのをご理解の上、これからの感想を聞いてください。

 

1.音楽

いやぁぁ~~~やっぱり良いですね。
今まで見た感想でも音楽に文句を言う人はあまりいませんでしたね。当たり前だわみんなドラクエファンだもんな。
一部、「ドラクエ5のBGMだけを使ってほしかった」とか「この曲はここで使われるべき曲じゃない」という声もありましたけどね。
でも、端から「原作に忠実な映画化ではない」こと自体は明らかだったはずです。
原作に忠実だったら、そもそもサブタイ「天空の花嫁」にしてるでしょうし。
なので、そういう点に関しては単に「今回はそういう方向ではなかった」ということで、僕は納得しています。
ま、「次回」があんのか分かんないけどね~!(血の笑顔)

僕としてはむしろ、分かってる選曲だと感じましたけどね。
元々いろんなドラクエシリーズから曲を引っ張ってくるんだろうな、とは思ってました。
ただ、全体通してみると天空シリーズを中心に持ってきてくれてるのは分かりましたし、要所要所結構うまいこと演出してたと思います。
特に馬車のマーチDQ4フィールド)のシーンはよかったですね。
あと、7の曲もいくつか使われてたのが個人的に嬉しかったです。
オルゴ・デミーラ」が流れてきたときは「え? なんで?」と思ったんですがまあ、終わってみれば納得。
それに、あの局面で「大魔王」(ミルドラース戦)はちょっと合わないですよね確かに。
総括して、音楽に関してはかなり良かったと感じました。


ただオメ~~~「敢然と立ち向かう」(ムドー戦)!!
11で懲りてなかったのか!? 使いすぎじゃい!! たったの2時間で2回も流したな!
「敢然と立ち向かう」が文句なしの名曲なのは認めるけどほんと頼りすぎだよドラクエ……。

あ、序曲は何度流してもヨシ。
だって序曲はゲームの時からして起動するたびに聴くわけだし、基本的に食傷起こすような曲じゃないからね。
いうなれば白飯よ白飯。美味しいおかずと一緒に食べる白飯はいつだって最高なわけ。

 

2.キャラクター

僕は3DCGって正直デザイン的に受け付けないことの方が多いんですけど、あれ系のCGは結構好きですね。
ディズニー系と表現すべきでしょうか? アニメチックですけど実写にも映えるやつ。
二次元的な3Dよりも、僕はそっちの方が好きです。
声に関しても、演技に対する違和感はほとんどなかったですね。
特に僕、ビアンカの演技が好きでしたね。
あと波瑠さん(フローラ役)の二役の演技分けは言わずもがな、お見事でした!
あと、幼少ヘンリーめっちゃかわいくなかったですか??
しかも一人称「余」て! この大胆なキャラ改変には僕もニッコリ。ショタ王子かわいいね。生意気な表情もよく作りこんでます。
ただ青年ヘンリーも一人称「余」なので、「あ、そこはこの10年貫き通したんだ……」と意外に思いました。
10年間ずっと「王子様と呼べ!」と言ってたと思うとなんかヘンリー、原作よりだいぶ鋼メンタルになってるなと思いました。凡人だったらそんなん奴隷になった時点でどうでもよくなりますよフツー。

しかも、「何が何でもここを出る」という意思はヘンリーの方が強くなってましたね。原作だとむしろⅤ主人公が逃げ出そうとしてるのをなだめてたくらいだったのに。映画ヘンリーは結構王族としての誇りとか意識が強いですね。
ああでもそうか、原作だとヘンリーが原因でパパスが死んじゃうわけで(映画ではそこの因果が結構薄めな印象)、それで心をぽっきり折られたところもあるんでしょう。
あと、原作ヘンリーは「どうせ王位継ぐのは弟だからな~」とか思ってたわけですしね。そりゃあ王族としての意識も薄くなる。

いや待てよ、そう考えると……? 
ヘンリーがいたずらっ子だったのは、「今の王妃が実の息子であるデールを溺愛して王位を継がせたがっていた」というところからくる王位への劣等感が大きな原因だったと考えられます。
そこを踏まえると、弟のいないヘンリーが変わらずいたずらっ子だったのはちょーっと違和感ありますかね確かに……。

でもカワイイからオッケー!

 

さて、花嫁なんですけど……

分かってたんですけどビアンカなんすね。
ええ、分かってますよ?
むしろフローラ選んでたら怒ってましたよ僕は。
ゲームだから、何度も選べる人生だから、初めてフローラという選択肢が生まれるんです。
PS2でちょっとフローラサイドにテコ入れ(幼少期に船で出会っていた)あったからって、フローラの圧倒的劣勢が変わるわけもなし。(そういえば映画ではSFC仕様で強引に幼少期のフローラとの出会いが追加されてましたね。僕的にはあの演出も良)
映画全体通してみても、やっぱりビアンカのかわいさ前面に押し出してますよね。実際かわいい。ドラクエ5が2019年に作られてたらあんな感じのキャラクターになったんだろうなあという印象を受けました。
あとフローラなんですけど、結婚申し込んだとき彼女が、
ビアンカさんは祝福してくれますよね……?」
とか言うもんだから「え!? まさか君ビアンカがリュカのこと好きなのを知って!? そんな嫌な女だったかフローラ!!?」
ってビビり散らかしてしまったもんですが、後の彼女の工作活動からアレは嫌味な勝者宣言というわけではなく裏表のない本心からの質問だったと発覚。ごめんなさい僕の心が汚れていました。
終わってみればフローラは解釈一致のいい女でした。さすが僕の花嫁です。

っせえ!! 
知ってる知ってる分かってるよフローラ派が異端扱いされるのは!
だけどな、いかに負けると知れてる闘いでも同調圧力が激しいとしても、男は黙って惚れた女を選ばなければよぉ!!
いい女でしょフローラ! 健気で、可愛くて、美しくて!
いかにビアンカと結婚する方がドラマチックと言ったって、愛には逆らえねえ!!

あ、解釈一致と言えばビアンカも変わってませんでしたよね。
わざとらしく結婚が決まってからリュカの泊ってる宿屋で酔い潰れちゃったりしちゃってよー!! 結婚前夜に「眠れなくって……」とか言ってた頃と何も変わらんじゃんか!
ズルい女だよビアンカは! でもそんなとこも僕は好きだよ!
フローラ派だけどな!

 

3.モンスター

CGはキャラクターと同じく全体的にすーごい良かったと思います。
ゴーレムやキラーマシンなんかは大きくて質感も良く、大迫力でした。戦闘シーンが見ごたえありましたね。
特に、ブオーンが仲間になる展開は夢があって良かったですね。
ただな~~~~仲間になるとき「ここで死ぬか下僕になるか選べ」みたいなこと言ってたじゃないですか。
仲間モンスターってⅤ主人公にとって下僕だったんかな……っていうのはちょっと解釈違い、というより単に少し悲しかったです。
あと、ゲレゲレが仲間になるシーンに関しては、どうせ出すならもうちょっと尺あってもよかったんじゃないかなと思いましたね。
何もカボチ村の一連のイベント入れてってわけじゃなく、せめてもう一言二言セリフと間がほしかっただけです。
だって幼少期の大切な大切な相棒ですよゲレゲレは。
「えっ、もしかしてゲレゲレ!?」
とかそんなあっさりと流せる再会じゃなくないですか?
「えぇぇ!!? ゲレゲレ!? ゲレゲレなのかい!? え、本当にゲレゲレ!? いやこの仕草は間違いなくゲレゲレだ! ゲレゲレ~~~~~~~!!!!!!!!」
くらいの感情必要じゃないですか?
まあ……「尺が足らない」はほとんど全シーンに言えるので、これはもうどうしようもないですね。

ドラクエⅤは、ドラクエⅣでのホイミンの人気を受けて初めて大々的に仲間モンスターを導入した作品ですからね。
そういった意味でも、もうちょっと仲間モンスターはボリューム欲しかったかな~~という印象。(まあドラクエⅤの映画ではないんだけどさ……)
せめてピエールとかブラウンとかその辺のみんな愛着もってそうな仲間モンスター枠もう一匹ほしかったかな……。

繰り返しますが、モンスターのCGデザインはすごくよかったです!

 

4.      

さて。
お待たせしました。

問題のシーンについて。

……どうだった? みなさん。
僕はもうね、天から不自然で角ばった何かが突き出してきて時が止まったとき心の中ではもう大爆笑でしたよ。

や~~~~~~ったぞこれドラクエ。やっちまったぞ、なあ。
なんかそれっぽい伏線張られてるけどまさかまさかねと思ってたら本当にやっちまいました。
元々、子供向けよりかはドラクエの古いファンを喜ばせるための映画やろなぁ……という雰囲気は感じてました。
ましたけど、そこまでやるかっ!? そこまで新規を置いてけぼりにする演出する普通!?
なあ、普通にやるんじゃダメだった? 本当にダメだった?

だってさあ、ドラクエくんいっつも言ってるじゃん、親子でドラクエやってほしいって、新しい世代に向けてドラクエ作ってますみたいな感じいっつも醸し出してたじゃん。
確かにナンバリングは8辺りから急に古参ファン向けの演出多くなって11なんかもはやドラクエの公式セルフパロみたいな様相を呈していたけどもさ!

というか! そもそもこんなことされたら往年のドラクエファンだって当然怒るわ!!
加えて新規置いてけぼりの高速展開!
ドラクエ知ってる人にも知らない人にもおすすめできんわ! 一体誰のためにこんな映画作ったんだ! 言え、言うんだ!
※僕はこの映画が好きです
※僕はドラクエが好きです

……と、まあ、いろいろ複雑な心境がありまして。
話を進めます。

僕の確信が事実になってから(すなわち「プログラム」という言葉が出てきた辺りから)、
僕の心は真っ二つに割れました。
それはちょうど、この映画の感想と同じ割れ方をしていました。

……ないわ。という心。
そして、よくやった!!! という心。

今もまだふたつのままです。
だから僕は映画の否定的な感想もよぉ~~~く分かります。
30代40代のドラクエファンよりファン歴は短いかもしれない、けど僕だって、SFCDQ5から始まり、ずっとずっとドラクエをやってきました。
誇りをもってドラクエを愛している人間です。だから分かる。
そしておそらく、この映画はそういった否定的な感情をおそらく意図して作ったんです。恐ろしいことに。

「プログラム」だとか「ドラゴンクエストⅤというゲーム」だとか、「処理を軽くする」だとか、
そんな言葉と共にあの世界が消失していったとき、皆さんは何を感じましたか。

僕は血の気がさっと引き、やめてくれやめてくれもうやめてくれと願いました。
その願いは具体的には2つあります。
ひとつは、まあ、これ以上あらぬ方向へ暴走して物議を醸す映画にしないでくれ、という思い。

そしてもうひとつは、僕の思い出を壊さないでくれ、という思い。

ドラクエⅤという思い出。
その思い出を背負って、今日、この映画を見に来た僕の想い。
それが一切合切台無しにされてしまった。
僕らの思い出は台無しにされたんです。意図的に台無しにされたんです。意地悪な大人によって。
(僕はあの消失のシーンを見て、ちょうど親にゲームの電源を消されたときのことを思い出しました)
それはまさしく、映画上でのリュカと同じ構造を取っています。

だからこそ、映画はその台無しを否定するのです。
僕たちはゲームの中に生きている。神道で言う分霊のように、僕たちはもうひとつの魂をゲームの中に宿す。
世界を超えて、プログラムを超えて、あのとき僕らはゲームの中で何かを掴んだような気がしていた。
そういった、他人に真面目な顔して話すなんてとてもできないような感覚を、僕たちは心の中に燻らせていたはずです。少なくとも僕はそうだったんです。
だから僕は泣きました。リュカが代弁してくれたから。
「ゲームにマジになっちゃって」なんて。そんな言葉が、僕らをどれだけ傷つけてきたことか。
僕はマジです。ずっとずっとゲームにマジです。一生懸命ゲームやってます。
きっと僕だって、リュカと同じように足掻いていたと思います、あの局面なら。

まあ……それだけに、あのシーンはすごく惜しかったなと思いますよ。
ひっくり返されたちゃぶ台をもう一度ひっくり返すには、相応の時間が必要だったはずです。
いやまた尺の話なんですけどね? 時間ないのは分かってますけどね?
でもこの映画の主軸をそこに置くなら、そこにもっともっと時間を割くべきだったと思うわけです。
なんかいきなりアンチウイルスとか言われても……という感はありました。(これの伏線どこかにありましたっけ??)
何にせよ、そういった形であっさり気味にアンサーしてしまったのはちょっと残念。
あ、ロトの剣取り出したこと自体はめちゃくちゃよかったです震えました

 

5.なんでこんなに批判ばっかりなんですか?

このシーンをいろいろ総括してみて、この映画を観終わった時の予想としては、「賛否3:7」くらいかな……と思ってました。
蓋を開けてみれば1:9です。いや、0.5:9.5です。
それは、まあオタクネットワークの性質としてデータがめちゃくちゃ偏ってる面もあるとは思いますが、まあ概ね批判批判の大嵐です。

どうしてここまで偏ってしまったのか?
というのを、僕なりに考えてみました。

たぶん、人は映画を観に行くとき「何か」を観に行くんですよね。
天気の子を観に行く人は恋愛映画、ボーイミーツガールを観に。
アルキメデスの大戦を観に行く人は戦争映画、歴史映画を観に。
要はジャンルの話、あるいは需要と供給の話。

ドラゴンクエスト・ユアストーリーを観に行った人は、おそらく大半が「ドラクエⅤ」そのものを観に行ったんですよね。
でもあれはドラクエⅤではなかった。もっと言えばドラクエですらなかった、ということがラストで判明する。
だから受け手は傷ついた。
それはもう、「百合だと思ったら男女の恋愛だった」「メガネキャラだと思ったら物語の途中で外した」レベルの危険手です。
男女の恋愛がダメなのではない、メガネキャラじゃないからダメなのではない、
需要・供給のパイプを突然切り替えるから事故が起きるのです。

それを、「肉まんだと思って食べたらあんまんだった」レベルのことと感じるか、
チョコボールだと思ったら泥団子だった」レベルの事故だと感じるか、というのは完全に受け手次第。

今回はみんながみんな後者レベルで感じてたんだと思います。
それがこの映画の大ブーイングの根本問題だと僕は考えました。
ちなみに僕は「ミルクチョコだと思って食べたらカカオ70%チョコだった」レベルでした。
チョコはチョコだし、苦いのも好き~と思いながら気にせずバクバク食べました。

いや、だってあれは「ドラクエ」ではなかったですけど「ドラクエのお話」でしたよね?
「一人のゲーム好きとしてドラクエを観に行ったのに、『ゲームなんかせず大人になれ』と説教された!」
という感想は割と多かったように感じますけど、
いや、まさにそういった「説教」を否定するための映画でしたよね?
大人だってゲームをやっていいんだ、俺たちはゲームと共に生きているんだ、ってそういうテーマでしたよね? 少なくとも。
僕はそのテーマに共感したからこの映画を大好きになったわけです。

でもたぶん、そういう感想を抱いた人はラストシーンがショックすぎて途中で気絶してしまってたんだと思います。いやほんと。
僕だって自分が二つに割れたとき片方が気絶しちゃったのでもう片方で観てましたよ。
まあ逆を言えば、そっちの気絶した側の感性だけ持ってってユアストーリーに臨んだ人は、
そりゃあまあ確かに怒り狂うだろうなというところはありました。
宣伝の仕方もあまりよかったとは言えないでしょう。せめてもう少しこの方向性を示唆することはできなかったんでしょうか。

ですから、「なんでこんなに批判ばっかりなんですか?」とは題しましたけど、
正直分かりますよ、分かります。
そりゃあ批判だらけになるってもんです。


でもクソ映画ではなかったです。
僕はドラクエ映画感想、初日からずっと追ってますよ。
最初は「賛否両論」というのが大きな流れでした。
そこに訴訟問題の流れが加わり、実写デビルマンと比べたツイートがバズり、
たった一日でドラクエ映画の呼び名は「クソ映画」に早変わりしました。
早い話、叩いていい空気だと分かってからは急にクソ映画呼ばわりが増えましたね。
あとはオタクのお約束、「どれだけ強い表現でこの映画を貶められるか」でツイッター大喜利大会。

人間は愚か。

いや、自分の感じたこと考えたことを自由に発信するのは、そりゃ当然許されるべきですよ。
ですから僕は、この映画で傷つき、その怒りを吐露しているだけの人たちのことを批判する気は全くありません。むしろ「だよね」と肩を叩きたい。
ですが、どれだけ傷つこうが怒ろうが、
この作品を変に邪推して個人を貶めるような発言までするのは傲慢です。
作品単体を見て、自分が感じたこと考えたこと、それだけが正当な批判ではないですか。
僕の怒りはそこにつきます。
嘘です。本当は
「『ドラクエ好きは絶対この映画嫌いになる』ぅ~~? 『この映画好きって言ってる人はたぶんあんまりドラクエやったことない人なんだろうな』ぁ~~~? っかましいわ!! 僕の方がお前らよりずっとドラクエ好きだわ!! 物心ついた頃から20年間弱ドラクエをプレイし続けてきてるんじゃこちとら!! そりゃファン歴はファミコン世代に負けるかもしれないけど人生におけるドラクエの密度はこっちの方が上じゃ!! だけどこの映画好きです!!! 僕は好きなんです!! そんなの単に感性の違いだろうが! 原作に忠実であることが映画化の価値かい!? 原作と違うところがあれば『ファンを軽視』かい!? んな極端な話があるか!!」

ってめちゃくちゃ怒ってますけど、
それは正当な意見ではないので心の内に留めておきます(留めてはいない)。

 

6.メタフィクションと虚構
僕はメタ表現というものが好きです。
近年、ゲームにおいてメタフィクションは大いに流行りましたね。
一番有名どころの某ゲームはswitch版まで出ましたし、
他にも無料でできるお得なギャルゲに、君が彼女で彼女が恋でみたいな名前のエロゲ(ネタバレ回避できてんのかそれ)に、あとあのアナウンスに従わないと怒られるゲームも話題になりましたね。

一方でRPG(特にドラクエ)は割と古くから「メタられる側」の最前線にありました。
古くは魔法陣グルグル。直近では「魔王城におやすみ」とかもそうですね。
他にも、RPGの「あるある」ネタを題材にした漫画小説は枚挙にいとまがありません。(こういうのはパロディと言うべきかもしれませんが、そもそもパロディというのはその世界に存在しないはずの物語を引き合いに出している点で、メタフィクションの一種だと言えます)
ちょっと前爆発的に流行った(と僕の中で思っているだけ)魔王勇者モノのSSなんかは存在自体がRPGのメタみたいなもんです。
ただ、メタフィクションの映画に関しては僕は造詣が深くないのであんまり詳しく言うことはできませんが……
「こんな展開は90年代の流行りだ」という批判が結構散見されたので、その辺りでやはり一度流行っていたのかもしれません。

まあ、これ以上メタフィクションの歴史なんかにわかが語ってもしょうがないのでここらへんにしておくとして。

今回の映画は少なからずそういった、史上何度目かのメタフィクションブームの流れを汲んでのものだと僕は認識しています。
(「流行りを取り入れてるからダメ」とか「使い古されてるからダメ」という意見にはそもそも僕は同意しかねます)
そして、古くからずっとメタられてきたドラゴンクエストというコンテンツが、
こうして堂々とメタフィクションを使ってきたことは、むしろとても嬉しかったですね。
そうそう、「これをドラクエでやる意味がない」という感想もありましたけど、
僕が感じた「ドラクエでやる意味」はこういう点にあったと思ってます。
ドラクエというより、日本を代表するRPGがこの映画になった意味、ですね。
意味というほど明確ではないかもしれませんけど。
「今までさんざんメタられてきたドラクエが、映画という大舞台でドラクエそのものをメタる」ということのブラックジョークめいた面白さ? と言うべきでしょうか。

ところで、僕がメタ好きなのは、僕が生粋のフィクション(虚構)好きだからです。
フィクションが好きだからこそ、フィクションとの距離感が近いメタフィクションが大好きなのです。
特に、深刻なメタ(ギャグじゃないメタ表現)というのは、私たちに虚構の命の価値を考えさせます。
虚構の命とは何でしょう?
それは厳密に言えば命ではありません。虚構は生きていないので。

でも、Gルートを選んだとき、一体どこで誰が悲しんだのでしょう。
.chrを消したとき、一体誰が何を失ったのでしょう。
Vtuberが引退したとき、一体どこまでが世界から消えたと言うべきでしょう。(これはちょっとズレた話ですが根幹は似てます)

虚構の命の価値、とはそういう不可解な領域に潜んでいると思っています。

僕はクリエイターの端くれの端くれとしてずっと現実と虚構の関係を考えてきました。

僕は現実が嫌いです。現実は僕を辛い目に遭わせるからです。
僕は風刺が大嫌いです。虚構のふりをする現実だからです。

僕は虚構が好きなんです。虚構だけが好きなんです。
二次元構造だけが、第四の壁のあちら側だけが、僕を本物の現実にしてくれる。
僕はいつもそう思ってなんとか嘘みたいな現実で生き残っています。
だからこそ僕はいつも虚構の命とは何なのか考えます。
考えに考えを重ねついに虚構の命をテーマに卒論を書いてしまったくらいには考えてきました。

皆さんは考えたことがありますか。物語の主人公の命の価値。物語の中で死ぬってことじゃありませんよ。

人はいつ死ぬと思う?

…人に
     忘れられたときさ…!!!

ドクターヒルルクもこう言ってます。
虚構の命だって同じです。むしろ、現実の命よりもこういった面が強い。
「忘れられてしまう」、すなわち「なかったことになる」のが虚構の死なのです。
だからリュカは抗ったんです。
もう一人の現実、もう一人の自分が消えてしまう、なかったことになる!
それがどれだけ深刻なことか、彼は知っていた。

もしも本当に全て壊されて、強制的に現実に戻ることになったら、きっと泣きも喚きもせずに「あーあ、災難だったなあ」なんてぼやくんでしょうね。それで返金してもらって、家に帰ってご飯食べながらツイッターを見て、例の騒ぎが話題になってて、くだらない大喜利でくすりと笑う。

そんなもんです。
そんなクソみたいな感情が僕たちの現実で、そんなものの積み重ねで、確かにあったはずの一人の人生を忘れていってしまう。それがどれだけ悲しいことか。

ウイルスの犯人は言ってましたね、「大人になれ」と。

「大人」という字はね、「一人の人になる」と書くんだ。

武田鉄矢もこう言ってます。嘘です。今思いつきました。
まあ、子どもというのはダブルスタンダードどころの話ではなく非常にたくさんの立場の自分がいるわけです。まだ自分の中で、自分が何者なのか定まっていないわけです。
それがやがて統合され、「一貫性」のある「論理的」な人間になる。
それが大人になるということだと僕は思っています。
現実の自分から逃れ、どこか他の世界の自分になりに行くのは、大人のすることではないのです。

みなさん、20代30代あるいは40代以上のゲームオタクのみなさん、言われた経験はありませんか。
「そろそろ卒業しろ」と。「もう子どもじゃないんだから」と。
あのシーンには、そんな「立派な大人たち」の呪いに対する明確な反逆が見えました。



僕は最近、社会人になりました。(いきなり自分語りをします)
ゲームをする時間が減りました。youtubeを見る時間だけは無駄に増えました。
小説も、絵も、頑張ってますけど、やっぱり最近モチベーションが上がりません。
ゲームを作る! なんて大学時代は言ってましたが、ゲーム作成のソフトウェアさえ入れていません。
迷走しています。
人生は短くて、全てをするには圧倒的に時間がなくて、何かを諦めなくてはならなくて。
漫画やゲームの中で子どもたちはいつも言っていました。「それが大人になるってことなら、俺/私、大人になんかならなくていい」
僕はその言葉を信じるまま、とうとう大人になり切れないまま、子どもにも混ざれない半端者として社会に放り出されました。
夢も諦めきれない。けれど夢を追って人生を賭ける胆力もない。
そろそろ大人にならなければならないのだろうか。
一丁前に恋愛をして、仕事をして、帰ったら食べて飲んで寝て、ランチは上司や同期と一緒に昨日見たテレビの話で盛り上がる。
そういう大人にならなければならないのだろうか。
って、最近ずっと悩んでました。

そんな僕には、彼の否定が結構、救いだったんです。


7.それでも僕があの映画に物申したいこと
再度確認しておきますが、僕は映画ドラゴンクエスト・ユアストーリーが大好きです。
それは間違いありません。
ただし!
僕の好きとは別に、あの映画がザックリ正しいか正しくないかで言えば、まあ、正しくはなかっただろうと思います
まず、誰を対象にした映画なのか見えてこない。
中途半端に子供向けで、中途半端に大人向けで、中途半端に独りよがり。
あんなにドラクエⅤ感を出しておいて、ラストのラストでちゃぶ台返し
そういう面もありました。
いっそ、ドラクエと題した完全オリジナルストーリーであったなら、
ここまでの批判はなかったでしょう。
リュカ事件もなかったでしょうしね。
そういう面もあったのは、確かに事実だと、僕は思ってます。

今回の感想にはこんなものもありました。
「監督に作品への愛/リスペクトが感じられない」
原作のアニメ化映画化ではお約束のセリフです。
僕個人の感情としては、こういうお手軽で卑怯な批判の仕方はめちゃくちゃ嫌いですけどね。
(繰り返しますが僕は「自分の物差しで相手の愛を測ろうとする人間にだけはなりたくない」と思っています)

でも、もう何度も言ってますけど、僕だって言いたいことは分かるんですよ。
実際、そういう感想をファンに抱かせてしまうというのはクリエイター側の深刻な問題でもあります。

コンテンツとは、作り手と受け手の信頼の積み重ねだと思ってます。
そういった中で、受け手を作品に対して疑心暗鬼にさせてしまうというのは、絶対避けなければならない。
今回この映画は、それをしてしまいました。
僕個人としては素晴らしい映画でも、他の多くのドラクエファンを傷つける映画を作ってしまった。
それが残念なことであるというのは、僕も肯定します。

僕もやはり、思わないわけでありません。
ひょっとするとこの映画は、ただ流行りのメタ表現に乗っかっただけなのではないか?
あるいは、なんか炎上商法で無理やり稼ごうとしているのではないか?(僕は炎上商法が死ぬほど嫌いですけど好きな人はまあまずいないですねそりゃ)
「リュカ」事件も鑑みるに、なんだかきな臭くなって参りましたよね。
ひょっとすると、このプロジェクトにはクリエイターとしての誠意が足らなかったのではないか?

疑り深い現実が押し寄せ、そこにある一個のフィクションが信じられなくなる。
これほど恐ろしいことはありません。
フィクションはただ一個の世界として存在しているのが素晴らしいのであって、
現実ではどうのこうのなどと言って後付けで評価するのは、僕のポリシーに反することです。

だから僕はあえてそういうことは含めて評価しません。
それに僕は主人が悪に染まれば自らも悪に染まる系の従者系の性格系です。


どんなになったって僕はドラクエを支え続けるだろうし、
この映画を見てその気持ちが強まったばかりです。

だから今はただ、この映画の呼んだ嵐がやがて過ぎることを祈っています。
そしてこの感想が、批判の嵐を見て落ち込んでいる映画肯定派に届きますように。